「ようこそ」という言葉をこれほど頻繁に口にする国は他にありません。そしてエジプト人がその言葉を口にするたび、それは本心からの歓迎です。悠久の歴史を持つ古代エジプト文明が人々を魅了し続ける一方で、現代のエジプト人も同じように驚くべき存在です。
スエズ運河の魅力
運河の中心に位置する物語のある都市
イスマイリアは、しばしば「すべての運河の都市の花婿」と称され、スエズ運河と密接に結びついた豊かな歴史と重要な意味を持っています。その起源は1863年にさかのぼり、スエズ運河の建設者として名高いフランスの著名な技師フェルディナン・ド・レセップスによって設立されました。この都市は、エジプトの支配者ケディヴ・イスマイール・パシャの名前にちなんで名付けられ、運河の開通式のために彼の壮大な宮殿が建設されましたが、現在は廃墟となっています。イスマイリアのレイアウトは、19世紀の都市計画のスタイルを反映しており、広い大通り、並木道、緑豊かな広場や公園があり、すべてが碁盤の目のような通りのパターンで整備されています。
歴史的な重要性:イスマイリアの歴史は、近代エジプトの重要な瞬間と密接に絡み合っています。1952年1月、この都市は、イギリス軍が反乱を起こしたエジプトの警官たちを鎮圧する重要な役割を果たしました。この事件は、同年後にファルーク1世の王政を倒し、その後のエジプト革命に繋がることとなりました。
運河の繁栄時代:スエズ運河が海上交通に開放されていた期間(1869〜1956年および1957〜67年)、イスマイリアは繁栄しました。運河の運営本部であるスエズ運河会社と中央運行局が設置され、運河の交通規制を担当していました。この時期、イスマイリアは経済的にも文化的にも栄えました。
挑戦と回復力:1967年6月(六日戦争)後、スエズ運河が8年間閉鎖されたことは大きな挑戦となりました。イスマイリアの経済基盤は揺らぎ、その住民の多くはエジプトの他の地域に再定住しました。しかし、1973年の10月(ヨム・キプール)戦争後、イスラエルとの停戦と平和が実現し、1975年に運河が再開されると、イスマイリアは復活を遂げました。難民が帰還し、政府は新しい住宅を建設し、アフワ・サダート大統領のインフターフ(開放政策)に従って、税金免除の工業区が設立されました。食品加工、トラクター・エンジン製造、造船業などの産業が栄えました。1980年代初頭には、都市内に発電所が建設され、インフラがさらに強化されました。また、1975年に設立されたスエズ運河大学は、イスマイリアの知的・学術的な風景において重要な役割を果たしてきました。
イスマイリアの歴史的な物語は、スエズ運河の創設者の壮大なビジョン、動乱の時代に直面した挑戦、そして市が進歩と繁栄の象徴として繁栄することを可能にした回復力を織り交ぜています。今日、イスマイリアはその不朽の遺産とエジプトの物語における永続的な重要性の証として存在しています。
作成日:2020年3月18日
更新日:2024年8月