「ようこそ」という言葉をこれほど頻繁に口にする国は他にありません。そしてエジプト人がその言葉を口にするたび、それは本心からの歓迎です。悠久の歴史を持つ古代エジプト文明が人々を魅了し続ける一方で、現代のエジプト人も同じように驚くべき存在です。
古代都市ペルシウム
ペルシウム:エジプトの歴史を見守り続ける不朽の守護者
エジプトの歴史書にその名を刻む古代都市ペルシウムは、国家の波乱万丈な過去を物語る遺産として知られています。地中海のさざ波とナイル川デルタの緑豊かな湿地に挟まれたこの地は、かつて海岸からわずか約4キロメートル内陸に位置していました。しかし、紀元前1世紀には砂の浸食が港を蝕み始め、3世紀までに地中海の海岸線はさらに遠くへと押し戻されました。
エジプト人からは「サイヌ」「ペル・アモン(アモンの家)」と呼ばれていたペルシウムの重要性は、現代名「テル・ファラマ」にもその余韻を残しています。また、『エゼキエル書』(30:15)に記された「エジプトの要塞」という聖書上の呼び名も、この地が古代に果たしていた重要な役割を示唆しています。
ペルシウムは、第26王朝以降のエジプトの歴史において、パレスチナとの国境を守る最大の前哨基地として機能していました。この要塞都市は、アジアからの物資が通過する関税地点としても重要で、国家の防衛と貿易の両面で中心的な存在でした。その中でも特に有名なのが、紀元前525年のペルシウムの戦いです。この戦いでは、ペルシアのカンビュセス2世の軍がプサメティコス3世のエジプト軍を打ち破りました。この戦いは、ガザとメンフィスでの攻城戦に挟まれた歴史的な出来事として語り継がれています。
ペルシアの支配から断続的に独立していた第28王朝および第29王朝の時代においても、ペルシウムはエジプトの防衛における要としてその地位を維持しました。ローマ時代に入ると、紅海への重要な道程上の中継地点となり、その時代の遺跡も残されています。しかし、7世紀になると都市は次第に衰退し、その長い繁栄の時代に幕を下ろしました。
ペルシウム周辺の肥沃な土地は、高品質で知られるペルシウム産リネン(Linum Pelusiacum)の生産地としても有名でした。また、この都市は早くからビール醸造の中心地としても名声を博し、ペルシウム産ビールがその名を広めました。
国境の要塞としてのペルシウムは、シリアや海からの侵攻を防ぐ守りの砦としての位置づけが非常に重要でした。度々包囲され、多くの重要な戦いの舞台となったこの地は、エジプト古代文明の繁栄の中心地として、時の砂の中にそのエコーを今なお響かせています。
2020年3月18日作成
2025年3月4日更新